ゆいグローバルネット共同代表の大橋ひとみから、インドネシア ジャカルタでの体験リポートです。
ジャカルタから母子で緊急一時帰国
~コロナが帯同家族に与えた影響~
大橋ひとみ
<認定心理士>
「急だけど、今夜の便で日本に帰れる?」
2020年3月末の昼食後、会社に行った夫から1本の電話がかかって来ました。ジャカルタでもコロナ感染が広まり始め、そろそろ家族は日本に戻った方がいいかなと思ってはいましたが、そんな急に?と驚きながら、春休みに入ったばかりで友達の家で遊んでいた子どもたちを急いで迎えに行きました。慌てて荷造りをし、しばらく戻って来ることができないかもしれないからと、ランドセルや辞書等の学用品もスーツケースに放り込み、自宅は大荒れのまま夜の飛行機に飛び乗りました。
当時ジャカルタの邦人の間では、「ジャカルタの医療が未知の病にどこまで対応できるのか?」という不安があり、家族や持病のある人は一旦日本に退避させようという判断になったようです。夫は邦人が一気に日本へ帰国することを想定し、飛行機の予約が取れるうちに、隔離や検査のために空港で足止めされないうちにと、帰国便を急いで押さえたそうです。実際、翌日から帯同家族の帰国が始まり、数週間のうちに帯同家族の8割程度は日本に緊急帰国したと言われています。家族だけではなく駐在員も日本に帰国させた企業もありました。
朝「行ってきます」と出かけた夫は、世界屈指とも言われるジャカルタ名物の渋滞で飛行機の見送りに間に合わず、その後1年以上会うことができませんでした。日本への飛行機の中で私の頭の中は「何とか子どもたちの心が平穏であるように」ということでいっぱいでした。さっきまで友達の家で遊んでいたのに、突然日本へ帰るのです。とにかく子どもたちが理解できるように、何度も、丁寧に、でも大げさになりすぎないように、説明しました。
日本に戻ってからは、自主的な隔離のために(日本政府はまだ海外からの入国に隔離制限を設けていませんでした)約2週間民泊マンションで生活し、その後私の実家に身を寄せました。結局、実家近くで仮住まいの生活を約1年間過ごしてから、家族のみ一足早く日本への本帰国を決めました。
日本での生活を今振り返ってみると、先が見えない宙ぶらりんな気持ちと共に、ジャカルタに残してきた夫のことを常に心配し、とにかく必死でワンオペ育児をこなした、そんな時間だったと感じます。「春休みが終わったらジャカルタに戻れるかな?」「夏休みには戻れるかな?」「お正月には?」と当てのない投げかけをし、少しずつ日本滞在期間を延ばす結果となりました。その間、小学校高学年に入った子どもたちは、学校に馴染めず体調不良を起こしたり、新しい友達とトラブルを起こしたり、家では理不尽な言動で荒れたり、次から次へと問題が発生しました。実家近くに滞在したため祖父母と一緒に過ごせたことはとても貴重な時間になりましたが、一方で不安定な子どもたちと祖父母の間に立つ私自身のストレスもありました。立場を変えれば、夫も子どもたちもそれぞれがストレスを抱えていたはずです。家族が慌ただしく旅立った後の部屋に一人取り残された夫。「ジャカルタに帰りたい」としくしく泣く我が子。家族皆がそれぞれの立場でそれぞれの場所で、必死に闘った、そんな印象です。
そんな生活の支えとなったのが、所属していたジャカルタマザーズクラブという母子支援ボランティア団体での活動でした。スタッフのほとんどは私と同様に日本へ緊急一時帰国となりましたが、緊急時だからこそできることをしようと活動を継続していました。活動を通じて、同じ境遇の仲間とたわいもない話ができ、自分だけじゃないんだと励まされました。危機的状況において、状況や思いを共有できる仲間の存在の大きさを改めて感じる瞬間が何度もありました。
このコロナ禍で我が家が経験したことは、個別の状況は違っても、ジャカルタで暮らしていた帯同家族の多くが経験したことだと思います。更には、日本には帰国せずジャカルタに残るという選択をした家族には、また別のストーリーがあります。ジャカルタに暮らしていた邦人それぞれ、家族それぞれに、コロナとの闘いがあったのだと思います。
コロナ以降の未知の病との日々は、世界中どこに暮らしていても先の見えない不安なものだったでしょう。しかしよく考えてみると、私たち帯同家族はコロナ前も先が見えない生活を送ってきました。夫の海外赴任により転居し、日本にいつ帰るのか?他の国に移動するのか?見通しが立たない中で、チームとして支え合える家族や、同じ境遇の仲間や友人がいたから、適応することができたと感じます。そんな経験をしてきたからこそ、コロナによる緊急一時帰国も乗り越えられたように思いますし、次に困難が我が家に降りかかったときもそれぞれが今回の経験を活かせるといいなと思います。コロナに振り回されたからこそ、当たり前だったジャカルタでの日常がとても輝いて貴重なものとして、私の中でも子どもたちの中でも残り続けています。いつか、家族全員でTerima kasih(ありがとう)を伝えに、インドネシアを訪れたいと思っています。
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